少人数のグループにて人間学ワークショップを行います。コンテンツは24セクションから構成されています。
   このプログラムは、企業経営者、CEO、幹部役員、管理職の方向けにお勧めです。講義内容だけでなく、参加者が出来るだけお互いに意見を述べられ
   るよう質疑応答を交え、より質の高い内容で理解力を深めていきます。

   ▶︎ワークショップ講座の進行プラン

   |STEP1 → 講座内容の説明STEP2 → Ice Break STEP3 → テーマに沿った講義STEP4 → 参加者相互ワークス |STEP5 → まとめ

                                                                          

  プログラム⑶  歴史に見る名将と参謀

   リーダーとして人の上に立つことは重い責任が発生します。ここでは経営者、幹部役員、管理職、セクションリーダーなどを対象にしたワーク
   ショップ講義を行います。判断、決断を常に要求される立場にある方々にとって、リーダーとはどのように対処していかなければならないか自
   問自答が続きます。一つの判断ミスが致命傷に繋がりかねないこともあります。そのような時にどのように考え、どう乗り越えるか資質と能力
   が試されます。全体を把握し、個別に判断する。歴史を紐解き、先人の普遍的な教えを学び、知識を深め、そこから現代的なリーダーとしてど
   うあるべきかという思考へ繋げていきます。 

   [SECTION 01] 伊達政宗とその家臣(だて まさむね)
            伊達政宗は武勇における評価よりも知謀という点において優れた武将であった。また義にも厚く、真田幸村の遺児にも援助
            の手を差し伸べている。そして家臣には傑物が揃っていた。文武に長け、信義にも厚い者達である。

   [SECTION 02] 竹中 半兵衛 (たけなか はんべい)
            豊臣秀吉が天下を取るに当たって、二人の軍師竹中半兵衛・黒田官兵衛を抜きにして語ることはできない。この二人を世間
            は「ニ兵衛」と称した。竹中半兵衛については、様々の逸話が残っているが、いわゆる講談などで後世に流布されたものも
            あり、史実とは違っているものも多い。しかし、逆に言えば、それほど魅力的な人物であったという証でもある。

   [SECTION 03] 黒田 官兵衛 (くろだ かんべい)
            半兵衛亡き後秀吉を支え、太閤の世をもたらした稀代の軍師・黒田官兵衛は、人間を見通し時代を見通す眼において傑出し
            ている。その実力ゆえに秀吉さえも恐れる程の人物だった。しかし一方では、ただの一度たりとも人を「死罪」にしたこと
            もなく、家臣や領民を慈しみ、組織の和合を大切にした人物である。

   [SECTION 04] 石田三成と島左近 (いしだ みつなり)と(しま さこん)
            石田三成は一般的にはあまり良い評価はされていない。しかし秀吉に見出された後、佐和山十九万石の領主として領民の治
            世は行き届いていた。農民の実情を調査し、年貢の取り立てに心を遣い、あるいは農民の直訴を許すなど湖北一帯をよく治
            めていた。
            石田三成に仕えた島左近は、鬼左近とも称されたほどの武人である。兵法に通じ、長刀をよくした。筒井順慶の子、定次に
            仕えていたが、酒色に溺れ倭人を用い、政に義のないことに愛想をつかして天正六年二月、筒井家を去って浪々していた。

   [SECTION 05] 立花道雪(戸次鑑蓮)(たちばな どうせつ、へつぎ あきつら)
            九州の名門・大友家の家臣としてキリシタン大名・大友宗麟を支えた名軍師である。武田信玄とはほぼ同時代を生き、その
            武勇を知った信玄は是非会いたいという書状を送ったほどである。勿論、両雄相まみえることはなかったのだが、信玄にそ
            こまで思わしめた立花道雪とは、如何なる人物であったのかー。

   [SECTION 06] 立花 宗茂 (たちばな むねしげ)
            立花宗茂は高橋紹運たかはしじょううんの嫡男であり、立花道雪の養子である。《名将言行録》には宗茂のことを「人となり温純おんじゅん寛厚かんこう。得あり
            ておごらず。功ありて誇らず。人を用ふる、己にる。善に従ふ。流るるが如し。奸臣かんしんを遠ざけ、奢侈しゃしを禁じ、民にするに
            恩を以てし、士を励ますに、義を以てす。故に士、皆之が用たるを楽しめり。其兵を用ふるや、奇正天性に出づ、故に攻め
            れば必ず取り、戦へば必ず勝てり」と記され、高く評価されている。

   [SECTION 07] 斯波 義将 (しば よしまさ)
            室町幕府二代将軍・足利あしかが義詮よしあきらに始まり義満よしみつ義持よしもちという三代に亘る将軍の補佐として活躍した人物である。義将は義満の
            時代に開かれた明との朝貢ちょうこう貿易を改めさせ、倭冦の禁圧などに力を尽くし、管領職を孫・義淳よしあつと後退した後も、義持を支え
            力を振るった。室町幕府という動乱の時代、しかも権謀術数けんぼうじゅっすう限りない時代、これほど長期に亘ってその力を発揮した義将の
            処世術は如何なるところにあったのか。

   [SECTION 08] 北条 早雲 (ほうじょう そううん)
            北条氏の祖・北条早雲は「伊勢新九郎」という一介の素浪人から戦国大名となった下剋上の嚆矢こうし、つまり先駆けであるとい
            うのが通説である。しかし事実は室町幕府の執事職という要職にあった備中の伊勢氏が出自であり、今川氏ととも肩を並べ
            られるほどの家柄であった。だとしても、早雲によって戦国時代の幕が上がったことも事実である。何れにしても早雲本人
            の器量がなければ他国において自領を持ち、それを拡大し維持していくことはできない。

   [SECTION 09] 朝倉 敏景 (あさくら としかげ)朝倉 孝景(あさくら たかかげ)
            越前朝倉氏は、もともと越前の在地国人(いわゆる地方豪族)であった。足利尊氏が室町幕府を開いて以来、南朝北朝との
            戦いばかりでなく、足利将軍家自体に内紛が続き、足利義政の時代には内紛に乗じてその都度権力を得た家臣によって政治
            が行われ殊に守護職の任命権はもはや将軍にはなく将軍という権威は失墜してしまっていた。朝倉敏景は文武両道に優れた
            人物でもあり、将軍足利義政は一見しただけで「真の英物なり」と看破したと言われる。絶え間のない戦いの中にあって
            も敏景の領国経営は、実に巧みであった。その領国経営の手腕が彼の残した「朝倉敏景十七箇条」の中に見えてくる。     

   [SECTION 10] 朝倉 宗滴 (あさくら そうてき)
            朝倉敏景亡き後、朝倉当主となったのは嫡男・氏景うじかげだが、治世わずか6年、38歳にして世を去った。これによって氏景の嫡
            男・貞景さだかげが13歳で家督を継いだ。朝倉宗滴は兄である氏景を立て、その子貞景、孝景、義景に至る朝倉代々の当主を50年の
            間、支えてきた人物である。宗滴は政事には一才関わらず軍事のみに力を尽くしてきた。朝倉家も含め何処も家中の内紛が
            堪えず、それが元で滅亡する家も数知れないという世相を鑑みての宗滴なりの処世術でもあった。

   [SECTION 11] 毛利 元就 (もうり もとなり)
            毛利元就の先祖を辿れば、兵法家・大江広元に辿り着く。元就は孫子の兵法の中「用間篇」にある内間、反間、死間、生間
            を巧みに用い、年収凡そ三千貫文でしかなかった毛利家を一代で山陰・山陽の十カ国と豊後、伊予の一部を領する大大名に
            まで押し上げた人物である。これを以て「知謀の将」という評価がなされている。別の言い方をすれば、一地方の小さな会
            社が、やがて一大コンツェルンを形成するに到るドラマである。

   [SECTION 12] 小早川 隆景 (こばやかわ たかかげ)
            毛利元就の三男として生まれ、毛利両川体制りょうせんたいせいと言われた一方の川、小早川を継いだ隆景はその洞察力に勝れ、状況判断とそ
            の正確さにおいて勝れた武将である。父・元就の遺言通り、終生を毛利家のために捧げた。小早川隆景がなければ、毛利家
            もまたその名を残すことはなかったであろう。小早川隆景が毛利本家の参謀として現実を踏まえ未来を読み、常に長期的な
            戦略を立てて実行したという点に着目して見てみたい。

   [SECTION 13] 太田 道灌 (おおた どうかん)
            太田道灌を語る上で欠かせないのは、室町という複雑な戦国時代の特性である。道灌は、当代随一の兵法家と評されていた。
            それほどの人物が何故、主筋から謀殺されなければならなかっただろうか。時代背景を探り、道灌がよく用いた「尉繚子うつりょうし
            を読み解きながら、「自分ならばどうするか」を考えてみたい。

   [SECTION 14] 上杉 謙信 (うえすぎ けんしん)
            上杉謙信と言えば、まず武田信玄との川中島の戦いを思い出す。確かにそこには多くの示唆がある。トップの性格、或いは
            事業における個々の具体的な動きなどと比較して、興味の尽きないところである。また、日本人が上杉謙信に抱く感懐は、
            彼の孤高を持した生き方そのものにある。謙信が堅持した孤高、つまり高い境地とは如何なるものか。歴史を学ぶという
            ことは、過去を知ることに非ずして、我々の未来を探り指針とするためであるという観点に立ち、謙信という人物に触れて
            みたい。

   [SECTION 15] 今川義元と雪斉 (いまがわ よしもと、せっさい) 
            今川義元四十二歳、織田信長二十六歳という年齢差、公家文化にどっぷりと浸かった義元と既成概念を砕き、破天荒な振る
            舞い をして来たとされる信長との対比は、ある種の痛快さを伴って語り継がれてきた。そのため今川義元が「海道一の弓取
            り」と称されてきた部分について語られることは、それほど多くはない。今川家の領国支配は、時代の先取りという点から
            見ても、優れていたにも拘らず、呆気なく滅んでしまったのは何故なのか。

   [SECTION 16] 武田一族(一)武田信虎   (たけだ のぶとら)
            武田信玄は上洛の途上、病に倒れてその生涯を閉じ、武田勝頼もまた織田信長の前に敗れ、武田家は滅亡した。「甲州法度
            之次第」を残した武田信玄、さらに「信繁家訓」を残した信玄の弟・信繁、彼らが描いた理想の社会とはどのようなものか。
            信玄よりも4歳年少の信繁は、信玄に先立つこと12年。37歳にして討ち死にした。武田信玄の父・信虎から武田勝頼に至る
            三代の興亡の中に、今日においても決して色褪せることのない事業経営や事業継承における法則が浮かび上がってくる。

   [SECTION 17] 武田一族(二)武田信玄  (たけだ しんげん)
            折に触れて控えの間の炉端に座った信玄が、くつろいだ中で話をした。話が弾み、それを収録したものが「石水寺物語」で
            あると言われている。机を並べて信玄の講義を聴くというのではなく、日々折々の信玄や側近の話の中で、若い者たちが知
            らず知らずに、武将とは、人とはと考えを巡らせていく。それが人材育成に大きな力をつけることになったであろう。人材
            育成とは、人間教育に尽きる。こうして教育された者達がやがて、実践の場において活躍するのである。信玄の奥義ともい
            うべきものであろう。 

   [SECTION 18] 武田一族(三)武田信繁 (たけだ のぶしげ)
            信繁は、武田信虎の次男として生まれ、信虎に溺愛されたにもかかわらず、兄・信玄をよく立てて仕えている。第四次川中
            島の戦いでは、窮地に陥った甲州勢を守るため、三千の越後勢に対し、僅か八百の手勢を以て奮戦し、一歩も退くことなく
            信玄の本陣を守り抜き、壮絶な討ち死にを遂げた。時に三十七歳であった。信虎の死は、信玄ばかりではなく謙信からも惜
            しまれたと伝えられる。彼が著した「信繁家訓・九十九箇条」は子息に遺されたものではあるが、信玄の意を受けて定めら
            れた「甲州法度の次第・五十五箇条」(後に二条追加されて五十七条)と表裏を為すと言われている。

   [SECTION 19] 武田一族(四)その繁栄と没落 
            甲州一国から信濃を完全制覇して手中に収め、晩年に近い元亀二年の時点では、駿河、上野西部、遠江とおとうみ、三河、飛騨、越中
            の一部にまで及んだ。だがその二年後病に倒れた信玄は「明日は瀬田に旗を立てよ」という言葉を発して息絶えた。時に信
            玄五十二歳であった。そしてその子・武田勝頼が跡を継いだのだが、織田・徳川軍に攻められ、天目山で自刀した。享年三
            十七歳であった。栄枯盛衰が世の習いであることは確かだが、人は常に栄えていたい、盛んでいたいと望むものであり我々
            もまた例外ではない。あるが故に、武田家の栄枯盛衰の中にその糧を得んとするものである。

   [SECTION 20] 真田一族 (さなだ いちぞく)
            武田信玄麾下きかには、武田二十四将と云われた錚々そうそうたる武将達がいた。彼等は信玄を支え、信玄とともに武田王国を築いてい
            った。しかし武田家滅亡後、討ち死に離散というように名をとどめる者は少なかった。生き残った中には帰農した者や浪人
            した者もいる。こうした状況の中で真田家が大大名ではないにもかかわらず、江戸時代に取り潰される事もなく明治に至る
            まで存続しえたということは、驚異的なことである。国も会社も家も永きにわたって存続し続けるということは至難なこと
            なのである。時代の大きな変わり目の中でその命脈を保ち続ける事が出来たのは何故か。それを考えてみることも、生きた
            経営学の一端であると考えている。

   [SECTION 21] 龍造寺隆信と鍋島直茂 (りゅうぞうじ たかのぶ)(なべしま なおしげ)
            龍造寺隆信といっても、すぐに理解出来る者は少ないであろう。だが、鍋島といえば「葉隠はがくれ」と、誰もがすぐに思い浮かべ
            る事ができる。その次に来るのは「化け猫騒動」という、講談などでよく知られた話である。この「化け猫騒動」は作り話
            ではあるのだが、そういう話ができる下地があったというこということだ。その下地とは鍋島は龍造寺から領主の座を奪っ
            たといわれていることにある。だがそれを「禅譲ぜんじょう」と見るか「簒奪さんだつ」と見るかは、それを考える者の立場によって異なるの
            は仕方がないことである。ただ、大切なのはそれによって家臣達の、或いは領民の生活がどう変わったのかその中身を知り
            その中から得た教訓を今日に生かすことである。

   [SECTION 22] 鍋島直茂と『葉隠』(なべしま なおしげ)と(はがくれ)
            直茂が残したものに「直茂公御壁書なおしげこうごへきしょ」がある。領国支配の家法ではなく、いわば処世術のような趣のものではあるが、人の
            上に立つ者の心得としてみるべきものがある。また「葉隠」を忘れてはなるまい。徳川幕府の体制が確立され既に安定期に
            ある中、鍋島藩主三代・綱茂つなしげの世に隠遁生活を送っていた佐賀藩主・山本常朝やまもとつねともは、後輩である田代 陣基たしろ つらもとに乞われて七年間に
            わたって物語した。田代 陣基はこれを書き綴り編集したものが「葉隠」である。「直茂公御壁書なおしげこうごへきしょ」や「葉隠」に、鍋島侍の
            みならず我々日本人が持ち続けてきたもの、忘れ去ってしまったものを採り生きた経営学のよすがとしたい。

   [SECTION 23] 尾張大納言 徳川宗春   (とくがわ むねはる)
            徳川宗春は八代将軍吉宗との因縁が深い人物である。享保十六年兄・継友つぐともの死によって尾張藩主となった。世にいう「享保
            の改革」では、吉宗が質素倹約を謳い、幕府の統制が強化されていた。この改革の最中に藩主となった宗春は、吉宗の改革
            とは真っ向から対立したような藩政の路線を打ち出した。これが現代では、格好のドラマのストーリーとして宗春は将軍職
            を狙って吉宗暗殺を謀る悪役として登場してくる事が多い。だが、彼の藩政は中途で挫折し、謹慎蟄居、さらに死後までも
            それは解かれず、墓石に金網を被せられていた。しかし彼の唱えた「温知政要おんちせいよう」と呼ばれる教訓書はみるべきところも多い。

   [SECTION 24] 鍋島閑叟(直正)と古賀穀堂   (なべしま かんそう(なおまさ))、(こが こくどう)
            明治維新の立役者は何と言っても薩摩・長州が大きく取り上げられ、土佐・肥前はとかく後回しにされがちである。しかし
            明治維新に大きな力となったのは、藩主。鍋島閑叟率いる佐賀藩にあったことを忘れてはなるまい。鍋島閑叟が社会の一大
            変革期に如何なるビジョンを持ち、如何なる戦略を立てそれを駆使しようとしたのか。そういう人となりはどうして育まれ
            たのか。また困窮していた佐賀藩を。如何にして立ち直らせることが出来たのか。閑叟はどんな国を目指し、その改革はど
            のように進められたのか。閑叟の師である古賀穀堂とともに、生きた経営学として供してみたい。

   

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